なぜ、いま九条を護るのか —— 変わりゆく時代のなかで


「九条は、時代遅れだ」。
憲法をめぐる議論のなかで、私たちは幾度となく、この言葉を耳にしてきた。国際情勢は変わり、安全保障環境は複雑化し、技術の進歩は戦争のかたちそのものを変えつつある。戦後まもなく作られた条文を、いまも守り続けることに、果たして意味はあるのか。
この問いには、正面から答えなければならない。護る立場に立つ者こそ、この問いを避けてはならない。
まず、「時代遅れ」という言葉について考えたい。第九条が生まれたのは、戦争の記憶が生々しい時代だった。しかし、記憶が遠ざかったからといって、戦争の本質が変わったわけではない。むしろ、技術は、より遠くから、より大量に、より精確に人を殺せるように変化した。戦争の痛みは、決して過去のものではない。第九条が突きつけるのは、人間はなぜ戦争を始めるのか、戦争によって何を得て、何を失うのか、という、時代を超えた問いである。
次に、「現実的ではない」という批判について。確かに、国際社会はいまだに武力の論理で動いている。しかし、だからこそ、その論理の外側に立とうとする試みに、意味があるのではないか。戦力を持てば、戦力の論理が生まれる。軍備の拡大は、相手の軍備を呼び、軍拡の連鎖は、いつしか緊張を現実の戦争へと変える。第九条は、この循環を断つ、数少ない制度的な試みである。現実を見ない理想主義ではなく、戦争の現実をよく知る者たちの、冷徹な選択だったと読むこともできる。
「押しつけられた憲法だ」という議論もある。憲法の成立過程に外部の影響があったことは、歴史の事実として認めなければならない。しかし、憲法は、公布された瞬間に完成するものではない。国民は、七十年以上にわたって、この憲法のもとで暮らし、その価値を日々の生活のなかで確かめてきた。第九条は、いまや、国民の生活と選択によって内面化された規範である。その重みを軽んじるべきではない。
そして、何より大切な問いがある。いま、この国で、第九条を護るとは、いったい何をすることなのか。
それは、現状を変えないことではない。護ることは、固守することではない。護るとは、繰り返し問い直し、言葉にし、行動することである。国際情勢が変われば、第九条の意味もまた、新しい問いを私たちに突きつける。自衛隊のあり方をどう考えるか。平和安全法制をどう評価するか。核兵器のない世界をどう実現するか。第九条を護るということは、これらの問いから逃げずに、第九条を軸として、平和の条件を考え続けることである。
私たちは、平和を「与えられるもの」だとは思わない。平和は、つくりだされるものである。そして、平和をつくり続けるためには、戦争の記憶を忘れず、憲法の言葉を読み直し、次の世代に伝えていかなければならない。第九条は、先人たちが、計り知れない犠牲と引き換えに得た、教訓の結晶である。それを護ることは、過去への忠誠ではない。未来への責任である。
変わらぬ誓いを、変わりゆく時代のなかで、繰り返し立てる。
それが、いま、第九条を護るということである。


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